移住?

老人ホームの仕事を辞め、新たに子供給食をしていた頃….。

そんなときである。1月ころだったろうか。古い友人が海外に住んでいたのだが、そこを引き払って実家の家業をするという。農水省の研修生枠が空いているからそこに入って、一緒にやらないか?という話だ。….それが、北海道十勝の大樹町だった。

友人はガーナに住んでいた。彼女が20年くらい前だろうか、ネットショップでガーナの民芸品などの販売をしていて、そこでコギリ(木琴)を見つけた。一緒にカクラバ・ロビが写っていた。メールでやりとりするとカクラバと友人で、その木琴もカクラバが作ったものだという。チャンシーは迷わず注文した。その時の木琴はすでに手元には無いが、そんなことが始まりで、彼女が帰省する時には、必ず羽田空港付近で会ったり、家に呼んでパーティーをしたり、スカイプで会ったりしていて、リアルに会った時間は短いが付き合いは長かった。

ちなみに北海道には、リアルでは数回しかお会いしたことにない友人がもう一人いて、このサイトの立ち上げを勧めてもらい、Web関係の師匠でもある、パンロゴ仲間のまうまう氏だ。(お世話になりっぱなしです)

北海道にこないか?という誘い。研修生枠で働けば1年間は給料が出るという。
その頃は、チャンシーの家の墓を古いしきたりのところから自由な霊園に移し、私の方も親父の墓を同じ霊園に移して、二人ともしがらみのようなものから解放されつつあった。娘も独立したいようなことを言っていて、二つ時期を待っていた雰囲気。私の母親も新居に引っ越すところで、全部が新しいことに向かっていた時期のようだった。この年の節分を過ぎた頃から、話はどんどん新しいことに向かって動き始めていた。悩むまでもなく、どちらからでもなく、北海道へ引っ越すという計画が始まった。いまの仕事は3月いっぱいで終わる。

北海道行きを決めると、友人は公営住宅を幾つか見せてもらい最適だと思われる物件を見ておいてくれた。会議はスカイプ。もう決めたのだ。下見に行くお金も時間も無い。写真や間取り図を見せてもらい、周りの様子はGoogleEarth。街中もそれで見て回った。役場の住宅の係の人は「いいんですかねえ、見もしないで….。」と言ったとか言わなかったとか…。

最適な物件が見つかった。眺めがとてもよく町の中心部に近い。小金井に比べれば4軒長屋だが広さも十分。言うことなしだ。(公営住宅なので家賃も安いです)

そこから、いよいよ引っ越し準備がはじまった。

移住を計画、または、「田舎に住むのいいなあ~。」と思っている都市部のごみごみした生活に嫌気がさした人はけっこういると思う。だが、最大のネックになるのはやはり仕事。昔と違い、納めるものもいろいろあり、完全に自給自足というのは成り立たず、どうにかして現金を手に入れないといけない。リタイアして田舎暮らしというのとは違うので仕事は重要だ。(ただし、家賃、食費などかかる費用は、東京よりはかなり少なくて済むので、ちょっと頑張ればなんとかなるぞ….と言いたい)

我が家の場合は、そんなことで1年間という猶予期間があった。老人ホームなどの給食関係、ヘルパーなどは、どの市町村にもあり、求人もある。….ただ、仕事はきついので覚悟が要るが….。こっちでも給食かなあ。とも考えていたが、実際こっちに来てみると働き口はあるようだ。ただ、都市部のようにハロワに行けばいいというものではなくこちらのコミュニティーにいかにとけ込めるかにかかってくるのかもしれない。自分で仕事を作り出すことも可能だし、考え次第なのかもしれない。

我が家は引越しに向けて怒涛の準備の毎日がはじまった。

 

立てなくなった

東北の大震災では、きっと東京都民だけでなく、それぞれの人がこれからのことを真剣に考えたと思う。余震にびくびくしながら過ごす毎日、(被災地からすれば大したことはないと思うが)原発への不安。人としてのこれから生きる道を考えたのだろうと思う。縁あって、東北には二度ほど支援事業で演奏に行って、実際の被害を少しだけだが見た。高度成長期に生まれ、バブルな時期を体験した世代のわたしには、あまりにもショックだった。なんだか、日々の暮らしも疑問に思えてくる。
これもまた、引越しを考える(移住)の前段階だったのかもしれない。

そして、それは突然やってきた。
2014年のことだった。

朝起きたら足から腰にかけて激痛が走って立てなかった。ほんとに突然の出来事だった。なんとか時間をかけて痛みに耐え、トイレには行ったがほぼ寝たきり状態、ふくらはぎにサポーター、腰に腹巻&カイロで、寝る前にはチャンシーにマッサージしてもらい、歩けるようになるまで一週間かかった。そして普通に歩けるようになるまで一ヶ月かかったが、なんとか腰をかばいながら過ごした。普通の生活に戻れても足首は全然曲がらず、痺れた感じ、ちょうど麻酔でもかかってるような状況だった。

足を引きずって過ごした夏は無事に過ぎたが、秋も終わりの頃、再発した。今度はさらにひどく、整形外科に行って、椎間板ヘルニアによる座骨神経痛といわれた。
整形外科で牽引やら何やらやってもらったが、(なぜか自転車は乗れたので整形外科で牽引に通った。)だが、いっこうに良くなるどころかさらに痛みは増すばかり…。もう整形外科では治らないと調べに調べて探し当てた「手を添えるだけで骨のゆがみが治る」を書いた吉田邦夫氏の療法をやっている整骨院を訪ねた。身体はガタガタあちこちゆがんでいたらしい。ほんとうに手を添えるだけなんだが、2〜3回で改善してきた。この時、なんとなく入れていた500円貯金箱にけっこうたまっていたので、藁をも掴む….という思いで開封して治療費にした。(ありがとう小銭貯金)
ドラムを叩くにあたって、身体の使い方とかは考えていたつもりだったが当時の仕事は立ち仕事で重いものも毎日のように持っていたし、ストレスも多く、忙しかった。

この時も一週間ほど仕事を休み、その後は足を引きずって仕事を続けていた。

はじめ、矯正の効果が出てくるまで、ほぼ寝たきりだった。何もできずに一日ラジオを聞いて、本を読んで、映画を見ていた。で、ぼんやりといろいろ考えたのである。小金井も木がどんどん切り倒され、まわりの景色もすっかり変わってきたな~とか、引っ越すんならどこがいいんだろうか…とか。家賃たかいしな〜働いても家賃でかなり収入は削られてしまう。よりよく(自分たちらしく)暮らすにはどうしたもんだろう…とか。だけど、腰は痛く、足も痛い。引越しなんて、できないかもしれない。このままなんだろうか?普通に歩けるようになるんだろうか? とか。

そして暮れに、足のしびれと椅子に座れないまま、仕事を辞めた。大晦日に毎年のように深大寺に蕎麦を買いに行って、ごく普通の年末年始を過ごしていた。

しばらくして、矯正されたきたのか随分良くなってきた。なんだか普通の生活ができるようになってきた。有給分は消化したし、やっぱり仕事はしないといけない。でも、あれだけ痛い思いをしたら、なんだか普通に歩けるだけで幸せな気分だった。2ヶ月弱の短期間だというので、自転車で20分ほどの保育園の厨房に入ることにした。日数が少なかったので、同じ敷地内の小学校にも同じ会社が入っているというので、そちらでも働くことにした。小学校は数百人分の下処理などだったので調理ではなかったが、いままで老人ホームにいたので、新鮮だった。足の痺れはあったもののわりと力仕事もこなしていた。それが終わったら先を考えようと思っていた。

この頃は、なんだか、すべてのものが新しく感じられ、普通に身体を動かせるっていいもんだなあ〜。とちょっとだけ、毎日うれしかった。

その後、吉田邦夫氏の著書を入手して、セルフで矯正を続けた結果、まずまず安心な域まで治って現在に至っている。その後、さらに強力なものも導入したのだが、それは1年後くらいを語るあたりに登場するだろう。

この5~6年で、体重もずいぶん落としたのだが、安心は禁物。腰は大事にしないと。

そしてこの年2015年の始め、北海道引越し計画の序章がはじまるのだ。

なんで?!

2016年の3月末まで、決まっていた仕事があったので、4月から新しい職場に移り新人をやっている。やっと少し慣れたところだ。

この一年を振り返りつつ、書いていこうと思う。

sora

なんでもない風景だけど実に十勝らしい写真。まわりは大体こんな感じだ。

さて、こっちの人は、「東京からです。」と言うと決まって力を込めて「なんで!?」と言う。住んでみれば東京よりもずっと良いと思うのだが、信じられないらしい。いったい、いままで何回いわれただろう。

私としては、ここ大樹町は、海、川、畑、牧場どれもあり、良質な食材がとても安く手に入る。日高山脈がそびえ、空気は澄んでいてこんなにいいところないんだけどな〜と思うのだが。そこらにエゾリスがいて、狐もタンチョウも鹿もいる。….さすがにクマには会いたくないけど、クマもいる。町の中心を流れる川にはシャケが産卵しに帰って来て、その様子もすぐ近くで見られる。海までは車で15分。東京から見ると、こんなに恵まれた環境は無い、我が家も小金井公園に近かったので、完全に街中よりはましだったと思うが、ここ数十年で小金井もずいぶん変わった。
あたりの梅林はどんどんマンションや建売住宅に様変わりしていった。駅ナカができて便利になったようでいて、大きなお世話である。

ここ数年は、東日本大震災があり、被災地支援のワークショップに出向いて、津波後の風景も実際に見た。いままで考えなかったことも考え、少しづつまわりの世界も変わったような気がしていた。

東京の友人たちは、必ず、「北海道いいなあ、でも寒いよね。」と言う。自分だってそうだった。地方に引っ越すなら、きっと暖かいところだろうと、ぼんやり思ったりしていた。

実際どうだったかというと、寒さはちょっと身構えてはいたものの、なんとかなっている。室内は、東京よりも隙間風がないし、ストーブが強力。我が家は、引越し時の段ボールとエアーパッキンを工夫して断熱を強化したし。下手に寒いよりキーンとした寒さはむしろ、清々しい。大雪、雪かきも多少経験して、人間どこでも慣れるものだなあと思った。

春は遅いが一気にやってくる。来たばかりの雪が解けたばかりの庭には一斉に花が咲き始め驚いた。花も木の緑もとにかく一気にやってくる。
夏は爽やかで涼しい。近所のおばあちゃんが「こんなに暑くちゃ、体が参っちゃうね〜。」という日の気温でも30度行かないんだから。熱帯夜が連日続き、夜でも下手したら30度越えの東京…..。いま思うと、よくあの夏を毎年暮らしていたと思う。

家賃、生活費どれもかなり安いので、本当の豊かな暮らしができるんじゃないかと期待している二年目の春だ。

 

わたしたち、北海道 十勝にいます。

昨年2015年4月、生まれも育ちも東京なわたし(すらいみー)と夫チャンシー(アフリカ木琴奏者)は、長年住んでいた東京小金井市から、北海道広尾郡大樹町にひっこしてきた。大樹町というのは、地図でいうと北海道の右下、十勝にある。東京で探したが、帯広から下の方は、なかなか観光マップや観光紹介ムック本などにも載っていない。酪農、農業、漁業などの産業がメインで、風景はヨーロッパのようで、ひろ〜い牧草地が続き、どこまでも広い、絵に描いたような北海道のイメージそのままのとてもいいところだ。最近あのホリエモンが住民票を移して少し話題になった人口6000人弱のだけどとても広い町だ。キャッチフレーズは「宇宙の町」。
多目的航空公園にはJAXAの実験場があったり、飛行船格納庫があったりする。

歴舟川という清流が町の中心部を流れ、山も川も海も近い。ほんとに十勝の食物自給率はダントツなんだな〜ということが感じられる、のどかな町だ。
この歴舟川という川は、なんと砂金が取れる。ちょっと上流の方に行って砂金取りや川がきれいなのでヤマメ、ヤマベ釣りの人たちも訪れるらしい。
自分の感覚的には引越し…なんだけど、移住者の仲間入りということになった。わたしたちが体験したことをブログに書いてみたら面白いんじゃないかという勧めもあって、このサイトを立ち上げた。引っ越してきて一年、どうでもいいことばかりかもしれないが、役に立つことも多少はあればいいかなと思っている。

写真は、うちの車サンバー、これで苫小牧までフェリーで来て大樹町入りした、たのもしい仲間だ。いまの状況、引越しのことなどおり混ぜて綴っていこうと思いますので、どうぞよろしく。

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