研修生 鳥のこと(2015)

私の苦手なもの。鳥類。子供の頃から鳥類は苦手だ。もう2m以内には近づけないほど苦手だ。ガーナにいくという話になった時、一番の心配事は、昔の日本のように(いつかは食べる)鶏が放し飼いになっている写真を見て、それが一番の心配だったくらい鳥がコワい。ひよこだろうが、文鳥だろうが、鳩だろうが、何しろ超がつくくらい苦手である。子供の頃には一度だけ弟が飼っていた文鳥を手に止まらせた事があったが、飛んだらもうパニックになる。原因はわからないが、とにかくコワい。爬虫類、虫など、人が怖がるものは大体平気だが鳥だけは別である。

だが、森の仕事で、そうも言っていられなくなった。

森には色々な野鳥が来た。鳴き声も様々なものが聞こえた。風の音、鳥の声爽やかな北海道の夏の森。野鳥の鳴き声だけは、けっこう好きだ。

コテージの窓ガラスに月に一度くらいの割合で野鳥(小鳥)が激突する。そいつは気絶してコテージのデッキに横たわっていて運が悪いとそのままショックで死んでしまう。という事で、月に一度は鳥の死骸を見ることになる。私が鳥だけは…と言ったら、オーナーはひょいとつまんで森に投げてくれる。ここにはキツネや鷹なども来るので、死骸はいつの間にかなくなっている。無くなるまではそこらへんは極力行かないようにしていた。秋、落ち葉を掃いて集めていたら、そういう鳥の死骸が一羽あった。大きなちりとりで恐る恐る取り、森の遠くに置いてきた。私的にはかなりの快挙だ。姿がなくなるまで何回も確認に行った。(怖いもの見たさである)

確か夏も終わりの頃だったと思う。
敷地内畑の近くに水道も電気も使わずに畑をやりながら生活できるという小屋があった。かつて、東京からそういうプロジェクトか何かで派遣されてきた女子が2人いて、数ヶ月そこで生活し豆を作って過ごしていた事があったらしい。その時に建てたものだと聞いた。彼女たちが去った後も、イベントなどで時々使っていた、こじんまりとした小屋だった。そこに雨水をためるタンクと外に野外用トイレがあったので、私は畑の水を汲んだり、その近くの丸太に座って休憩場所にしたりしていた。ある日その小屋の屋根に一羽の小鳥の死骸を見つけた。やはり窓に激突したようだ。どうやっても届かないところにあった。小屋に入って屋根裏まで上がって窓から見てみても届く場所ではなかった。が、外からは見える。小屋の周りの畑にも作物を植えていたので、ここにはいつも来る。気になって観る。
京都西福寺だったか、「檀林皇后の九相図」を思い出したが、そんなにグロテスクなものじゃなく、動物だし、結構距離があるのでそんなに良くは見えないのだが、北海道の乾燥した気候で、だんだん乾いていくのはわかった。小さくなってきた。一服しながら鳥の一生を考えた。この鳥も成仏してくれと祈った。そして、いろいろなことをぼんやりと考えた。何日か、それはあった。

そんなある日、この地域に竜巻のような大風が吹いて、ひょうたんの棚や作っていた豆の支柱が軒並み倒れてしまった時、それも飛ばされ、動物に運ばれ無くなってしまった。だが、その数日が印象深く、今でもはっきりと覚えている。

そういえば、森から家に帰る時山の斜面にものすごく大きな鹿が立っていてじっとこちらを見ているというのにも何度かあった。森の中にキツネや鹿を見たこともあった。森や山で出会う動物はとても神秘的だ。貴重な経験だったと思う。

今になると、うちの庭にもキツネは来るし、隣の広尾町などは横断歩道を鹿がわたるくらいだが、森の動物たちは、そういうものとは全く違う神秘体験なのかもしれない。

研究生 冬(2015)

冬がいよいよ近づいてきた。畑に残っている作物をせっせと収穫しては一輪車で母屋に運ぶ。豆を干す。切干しの製作。雪に備えて外に出ているベンチなどの片付け、壊れているベンチの解体。薪を巻き小屋に運ぶ。薪割りも機械を使うと言っても薪サイズの丸太は重かった。うまく工夫して転がしながらせっせと割って積み上げた。そうこうしているうちに雪が降った。雪はコテージの屋根から落ちてデッキにたまり凍った。マイナス20度を下回る大樹町の冬が来た。雪が積もると森にも畑にも入れない。ムロから大根を出して切干しをせっせと作った。夏のバーベキュー施設が作業場になった。デッキの氷割りも少しづつやった。で、初めてしもやけになった。氷は少しづつしか割れず半日やってもデッキの半分しか割れなかった。綺麗にしてもすぐまた凍る。冬用の長靴に分厚い靴下を履いてもしもやけに悩まされた。ここのオーナーが入院したため、一度だけだが雪かきのためにタイヤショベルにも乗った。敷地内なら免許はいらない。

冬はコテージにも泊り客はほとんど来ない。だんだん仕事もなくなってきた。雪が屋根から落ちるとそれをどけたり、切干し作りばかりしていた。息抜きの枝拾いもなく焚き火もできなくなったので残念だ。燃やすゴミをせっせと集めて小さい焚き火で燃やした。

そんな中、出向のの話が来た。

私が研修生としてやっている事業の共同参加者が、尾田地域で豆よりの人出を探していた。ここに来る前に聞いていた話では、農業部門の共同参加者がいるがどうも意見の相違で決裂していたとか。それで、今年はここの人たちだけだけで畑をやっていたと聞いていたので意外だった。何度か姿を見かけたことがある程度で、ほとんど面識はなかった。まあ、研修期間は3月いっぱいまでだ。家からは車で20分くらいだし、数ヶ月そちらに行ってもいいだろう。違うことができるから面白いのかも…。

それから、尾田地域での豆よりの毎日が始まった。

朝、鍵を開け、誰もいない工房で袋から豆を出し選んでいく。シーツを広げた机の上に山にして、少しづつ手で選っていく。それの繰り返し。ラジオが入りにくいのでスマホのネットラジオをかけて、ひたすら選る。もう1人のスタッフが後から来て、しばらくすると昼飯。合間にここのオーナーが顔を出し、私よりも早くその2人は帰る。それから二時間あまり作業をして、戸締りをして帰る。時々、いなきびや豆の袋詰め。そんなことの繰り返しだったが、ラジオで北海道のことが色々わかってきたりして、単純な作業だが意外に豆よりは楽しかった。ただし、ここも寒く暮れに近づくと暖房を入れてもやっぱりしもやけになった。分厚いスリッパの下に防寒ソックスを重ねばきして寝る前にしもやけクリームを塗って寝るのが日課だった。

暮れには黒豆を少しもらって正月用にした。ここに通っている間、何度か激しく雪が降った。朝行くと工房には入れないほど積もっていて、車からスコップを出して雪かきして入ったこともあった。道路は吹雪のようになってホワイトアウトというのも経験した。(結構怖かった)

こうして、年の瀬になっていった。

年が明けてからだが、一度だけ、味噌作りをやった。麹も麹菌を米にふりかけ、麹室で作った本格的な味噌だった。その時の味噌がまだ家にあるが、三年を経てなかなかいい味噌になった。

研究生 秋(2015)

秋になって、畑の収穫もまっさかり。ほどほどな広さの畑には野菜が実った。かぼちゃだけはなぜかものすごい量で、三箇所の畑にどっさりできた。この時期修学旅行の受け入れもあったので、高校生の手も借りてコンテナに詰めたカボチャと大根をせっせと地下の榁に運んだ。結構な力仕事が続いた。森に落ちている枝拾いもせっせとやった。猫車を押して枝を拾って集めては山にして、持ち上がらないくらい大きいのはノコギリで切って運んだ。大きな山を作って、燃やす。雨の日は、コテージのセンターハウスの棚に長年溜まっていたものなんかを片付けたりした。(もうこの時期にはパソコンでやる仕事なんて、何もなかった。そんな時間は全く取れなかったが、写真の整理だけは少しあった。)

この頃には、悩まされていた足のしびれも森の中を一日中歩いていたせいかずいぶん楽になってきていた。今考えると毎日アーシング(グランディング)だったのかもしれない。枝ひろいをして、大きな枝の山を燃やす焚き火。これが唯一の楽しみで、焚き火をやる日は本当に1日頑張って枝を拾った。焚き火といっても小さなものじゃなく、キャンプファイヤーをもっと大きくしたようなデッカい火。面白いのでファイヤースターターなんかも試してみたりした。白樺の皮とアルミのファイヤースターターの組み合わせで結構うまく着火できるようになった。コテージ横のバーベキューハウスに予約が入ると炭火起こしなんかも請け負った。小金井公園でパンロゴクラブ の仲間とバーベキューをよくやっていたので炭の火起こしはお手の物だ。変なところで変なスキルが役に立つものだ。

合間に森の中で山ぶどうを収穫してジャムを作ったりしたのも美味かった。

収穫した大根、べにくるりという赤い大根は切り干し大根の製作を始めた。とってもとっても大量にあった。毎日収穫、一輪車で運んで、水洗い、切って干す。秋も深まる頃は、それがメインの日課になった。

もう、こういう作業だけになっていた。日報のようなものを作っていたが、毎日、「畑作業」「切干し製作」ほとんどがそれで埋まった。最初に言われていた研修などは全くなく、一度だけ食品衛生セミナーのようなものに参加しただけだった。東京で介護食の会社にいた時に取った調理師免許、役立つことはほとんどなかった。一度だけ修学旅行生のためにもらったカレイの刺身を大量に下ろしたことだけだ。ここに来る前は、十勝の食材のレシピづくり、まちおこしイベントの企画、なんて話もあったんだが… 。敷地内に小さなレストランがあったが、バーベキューの火起こしくらいでどんなに忙しくても呼ばれることはなかった。十勝の食材の活用メニューを考えるなんて全くなかった。でも、不思議と辞めてしまおうとは思わなかった。あと半年足らず、任期は無事に終えようと思っていた。

生活はというと、大樹町の町営住宅は家賃も安くとても暮らしやすく、美味いものもいっぱいなので、すっかりこの街を気に入っていたので、このままこの街にくらす方法など模索していた。好きな時に休みを取れるわけでもなかったが、移住者向けのイベントなどにはせっせと参加して、パンロゴクラブも地元の祭り参加や、デジタルアート展なんかもやって結構充実していたが、どうも最初の構想とはだいぶ違ってきた。冬までこの件をまとめたら総括してみようと思っている。

 

そして、いよいよ冬が近づいてきた。